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人の生き方が多様であるという前提を踏まえての、社会設計

初めて付き合った女性と別れ、どうしたらよいかわかない状態で、私は母親にカミングアウトしました。私たち二人の関係性はとても閉じたもので、交際している事実を知っている人は、本人達以外、誰もいませんでした。

カミングアウト直後、母親には「いつからそんな子になっちゃったの?」と言われました。父親には「おまえはどう生きていくのか」と、不安な様子でした。

そのとき、私は自分の状況をうまく説明する言葉を、持ち合わせていませんでした。

ヘテロの友達に相談すると、「すぐに次ができるよ」と言われました。でも、どこで恋人になれるような人と会えるのかわかりません。ある人には、「いつまで悩んでいるの」とも言われました。自分でも、いつまでこの「言葉にならない悩み」が続くのか、苦しくてたまりませんでした。

交際が順調な間は、自分と似たような経験をした人(当事者)の友達は必要ないと思っていました。「プライベートなことだからわざわざ言う必要はない」、と。

しかし、プライベートなことを話せない、たったそれだけのことが、人をこれほどまでに苦しめるということに、別れてから初めて気づいたのでした。それからは、数年かけて当事者の友達を少しずつ、つくっていきました。

そうして、自分が経験してきたことを言葉で表現する術と場を得ることができました。今は、職業、年齢、学歴などさまざまな人とつながりを持て、毎日を楽しんでいます。

私にとってはこの毎日が「普通」のことなのに、社会では「普通じゃないから」という理由で、残念な扱いを受けるのも事実です。信頼していた人から心ない言葉を浴びせられたこともありました。

私にとっては「普通」であるパートナー、当事者の友達を大事にしたいのに、社会がそれを許さないときがあります。一人では「普通じゃない」というレッテル貼りや自己嫌悪から逃れるのは難しく、結局は「カミングアウトした自分が悪いのかも」と自分を責めがちです。

でも、「話せる人」(当事者だけには限りません)に愚痴っていれば、やっぱり自分は「普通だ」「悪くない」と思えるようになります。

「LGBTの家族と友人をつなぐ会」は一人で悩んでいる当事者やご家族が、「自分は普通なんだ」と思える場の一つを、提供していると思います。しかし、当事者同士だけの助け合いには自ずと限界があります。

社会には、人の生き方が多様であるという前提を踏まえての、社会設計を望んでいます。

みて公