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わたしの思い

「女のくせに」と押さえつけられ、「女の子だから」と我慢を強いられながら成長した私は、自分の子どもにだけは「女だから、男だから」といった性別による差別だけはしたくないと思って子育てをしてきた・・・つもりでした。しかし今振り返ってみると、性別によって違う扱いをしていたと反省することがたくさんあります。

あの子は、3歳の誕生日にボクシングのグラブかサッカーボールが欲しいと言い、小学2年生でスカートはもちろん、ブラウスやポロシャツなど「襟がついてる服は女が着る服や」と言って着なくなりました。とにかくジッとしていない活発に外で遊びまわる子どもでした。

幼稚園の時から、男の子に混じってクラブチームでサッカーをするようになりましたが、小学3年生のときの震災で一挙に公園に仮設住宅が建ち、サッカーどころではなくなりました。それを機に、無理やり地域のサッカークラブの女子部に入部させました。市の大会などで、気の合う友人たちとの出会いがあり、小学高学年から中学、高校にかけてサッカー一筋の生活を送りました。

自分の好きなことを思う存分しているはずなのに、思春期に入ると、毎日のように私と衝突し、家族には”王様“のように君臨していました。下の子どもたちは怖くて歯向かえない状態だったと思います。なにかしら、いつもイライラしているような様子に、思春期の子どもの通る道だとタカをくくっていた私ですが、今思うと、あの頃自分でも自分をどうしていいのかわからなかったのでしょう。自分の在りようが人とは違うことはわかっても、どうしていいのかわからない、混沌とした時期だったのだろうと思います。

「三年B組金八先生」で『性同一性障害』が取り上げられたのは、高校2年の時でした。一緒にTVを見ながら、きっとこの子もそうなんだろうなあと思いながら、「あんたはどうしたいん?」と聞いたところ、「うーん、胸はいらんなぁ」と言うのが答えでした。

その頃出ていた『性同一性障害』関連の本を二人で読んだのも、この番組の影響でした。

女子大学に進学すると決めたときに、本当にそれでいいのかと危惧しました。途中でここは自分の来るところじゃないと思うんじゃないか、自分の居場所がないんじゃないか・・・。しかし、ここでありのままの自分を受け入れてくれる大切な人と出会いました。そして、20歳の誕生日を迎え、カミングアウトする勇気をもらったのです。

私たち家族にとって、カミングアウトは、格別驚くほどのものでもなく、「やっぱり・・・」といった感想でした。しかし、話を聞くうちにそれまでいかに苦しみ、自分の存在を否定しながら生きていたんだと思い知らされました。そして、青春をかけて打ち込んできたサッカーは女子サッカーの世界であり、性別が変わることで道は頓挫してしまうことになります。その喪失感や悔しさを思うと、本当に別の人生を生き直すことになるんだと痛感したのでした。

家族一人ひとりに対しての誠実なカミングアウト、信頼している友人たちへのカミングアウト、周りにいる仲間やお世話になっている人たちへのカミングアウト、私が知っている限り、カミングアウトは全ての人たちに受け入れられ、大きな親愛の中に包まれていたと思います。

『性同一性障害』であることを全面に出したブログを立ち上げ、病院にも通い始め、1年後には夫がつけなおした名前に改名も成し遂げました。大学側に働きかけ、トイレや更衣室などを配慮してもらえるように動いたり、前向きに進んでいるようです。

子どもは急に大きくなって目の前に現れるわけではなく、ずっと産まれてからの成長を目の当たりにしてきた親としては、その子がセクシュアル・マイノリティだからと言って、そうでなくなってほしいとか、育て方が悪かったとか、自分の子どもではないとかなどと子どもを否定することなんてできません。むしろ、私の想像のつかない程の苦しみや悲しみを味わってきたと思うと、我が子ながらそれを乗り越えてきた強さに感服さえします。確かに周りの友人や仲間のみなさんに恵まれているとも思いますが、それも人間性ゆえでしょう。

FTMの『性同一性障害』だというのは、ごく一部分ですが、この一部分はまだまだ社会に受け入れられにくく、生きにくいだろうとは思います。他の障害のある方に比べて、セクシュアル・マイノリティの自殺願望や自殺未遂経験者はたぶん多いと思います。しかしそれでも、セクシュアル・マイノリティの人たちは自分の人生を本当に一生懸命生きようとしています。人としてそのことがどんなに大事なことかと突きつけられる気がします。自分で『性同一性障害』でよかったと思えるような日がくることを信じて、多様な性のあり方が認められる社会が実現することを心から願っています。

いわたに てるこ(兵庫)