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偏見からの自由

今年も夏の修養会が、H牧師をお迎えしてアシロマーで開かれました。「偏見のない人生と信仰」と題して今を生きる私たちに聖書が語るメッセージをどのように受け取るのか、聖書の読み直しの必要性について考えさせられた2日間でした。その中で、H牧師が長年にわたって取り組んでこられた同性愛者に関する偏見と差別の問題の解決に関しては、今、教会がその態度決定を迫られている緊急課題であると提言され、一人ひとりが自分の問題として考えるように促された時間でもありました。

同性愛者など性的少数者の人権問題は、宗教問題を絡めながら、人類最後の人権問題として、現在どの国家・社会においても解決しなければならない大きな政治課題の一つとなっています。ここ10年間を見ても、人々の理解もずいぶんと深まり、幾つかの国ではその結婚も認められるようになって来てはいますが、社会が大きく変革する時には、それに反対する勢力もまた勢いを増してくるのが常で、反対勢力の中で一番大きく、やっかいなのが、キリスト教であるというのも、また認めざるをえない事実です。21世紀のキリスト教会は、セクシュアリティによって揺さぶられ、大きなチャレンジを受けるだろう予言された牧師さんがおられましたが、まさにこの課題は、もう後回しにすることはできない緊急性をもって私たちの信仰のあり方までを問うているのだと思います。

なぜ、特にキリスト教でも保守といわれるグループの人たちが、同性愛に反対であるかは、聖書の数箇所にそのような記述があるからということなのですが、今回H牧師は、その一つひとつを取り上げて、聖書の文脈を正しくとらえること、特殊な偏見と時代精神を排除して開かれた心で読み直しを行っていくことの必要性を分かりやすくお話くださいました。

私事になりますが、今から15年以上前になりますか、教会で行われた「同性愛について考える集まり」に参加した折、やはりH牧師が講師として来られ、同性愛者に対する偏見の排除と理解を求められたことがあって、以来、キリスト者としてどう考えるか、断続的に考えてきた課題でもありました。その時には、同性愛についてなど、普段ほとんど考えたこともなく、接したこともなく(と思っていました。本当は、どこかで必ず接しているはずですよね。)全くの無知でどこかにそういう人もいるのかなというような他人事としてとらえていました。しかしながら、先生の話を伺い、教会からも社会からも家族からも見離され、あるいは自分で自分自身を受け入れることができず、エイズという当時は治る見込みのないとされた病に冒された同性愛者の置かれたすさまじい状況にキリスト者としてどう向き合えばいいのか自分なりに一生懸命に考えた記憶があります。

おそらくイエス様が現代に生きておられたとしたら、真っ先に行って添われるのは、その方々だろうということは想像がつきましたが、一方、聖書のパウロ書簡などに書かれている同性愛を禁じる記述とどう折り合いをつければいいのか。その時、自分なりに出した答えは、現代の同性愛の問題は、聖書が書かれた当時の割礼問題に匹敵するようなことではなかろうかということでした。今でこそ、割礼問題は何でそのようなことが、信仰の命をかけて論じるようなことだったのだろうと思いがちですが、当時のユダヤ人キリスト教の人にとっては、神様との契約のしるしの割礼を無視することなど、到底許すことのできない信仰が大きく揺さぶられるような大事件だったはずです。「体に割礼を受けていなくとも、イエス・キリストを信じることこそが神の義である。」というパウロの主張でキリスト教は地域の一宗教から世界宗教へと飛躍していきます。今まさに私たちに突きつけられている同性愛の問題は、異性愛者にとっては従来の価値観を根底から覆すような受け入れがたいことではあっても、初期キリスト教会が割礼問題を克服していったと同様に、克服していかなければならない問題なのではと思い至りました。それが、聖書を現代に通じるメッセージとして読むことではなかろうかと当時考えたものでした。

それからしばらくして、「キリスト教は同性愛をどう捉えたらいいのでしょうか。」と、ある牧師先生におたずねしたことがあります。興味半分ではなかったつもりですが、所詮、他人事として聞いているにすぎないことを見抜かれた先生から、「そういうことはね、当事者の親が悩みに悩んで、そして神様にどうしてこんなことが?と苦しみの中から聴く時に、神様は、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、お答えになられるようなことですよ。」と言われたことを私の反省として今も鮮明に覚えています。

そして今年の初め、その小さな声を聞かなければならない時が突然やって来たのでした。それは、18歳になる長男が、カミングアウトをしたことから始まりました。頭で考えて一応の理解はしていたつもりでしたが、実際に親としてわが身に起こった時には、それまで考えていたことはすべて吹っ飛び、私がよく知っていた今までの子どもではなくなってしまったような喪失感、親の育て方が問題だったのだろうか、親として子どもにどうしてあげるのが一番いいのだろうか、と涙が出る余裕もないほどの大ショックとパニックで天と地がひっくり返ったような思いでした。子どもはこれまで、大変な思いをしてきたのに、そのことに気がついてやれなかった後悔と同時に、世間に対して恥ずかしいという思いもありました。

それからというもの、真剣に同性愛について調べ、また子どもをどう理解し援助したらよいかについて考えてきました。分かったことはたくさんあります。どの時代でもどの社会でもほぼ同じくらいの割合で同性愛者とされる性的少数者がいたこと、それは今では、大体人口の6%、15人に1人の割合と見なされていること。(隠れ同性愛の人がいかに多いかが、この問題の根深さ、社会的な抑圧の大きさを物語っています。) 原因については、どれも仮説の段階でまだはっきりと解明されていませんが、母親の胎内にいる時、何らかの原因で生まれつきそのような指向を持っていると考えられていること、(本人の選択や育ちの問題ではないということです。) 自分が人と違うということに気づきはじめる思春期の頃、自分で自分が受け入れられなくて苦悩し自殺する若者が多いこと。(これは、そうでない場合の約3倍とも言われています。) 指向を変えられるケースもあるにはあるが、生まれつきの場合はむしろ、その試みは害になるということ、などなど。また、アメリカは、親や友達のサポート組織が充実しており、PFLAGという親のサポートグループのサイトからは、子どもからカミングアウトされた時、親としてしなければならないこと、してはいけないことなど具体的なことも教えられることが多くありました。

息子の場合です。思春期の始まる中学生になった頃から、自分が人と違うことにはっきりと気づき始め、でも友達にも家族にも言えず、一人で考え悩んでいたそうです。一番つらかったのは、誰にも本当のところを理解してもらえないという深い孤独感を感じることだったようです。ニュースではさかんにエイズについて報道していた頃でもあったので、自分は大人になったらエイズで苦しんで死ぬ運命だと思い夜一人で泣いていたこと、自分も他の人と同じになれるよう、神様に真剣にお祈りしても一夜あければ何も変わっていないままで、祈りが聞いてもらえないとがっかりしたこと、何か悪いことをしたのだろうかという罪悪感、人と違って見られたくないために使っていた気苦労の大変さ。しかし、誰にも言えない一人ぼっちの苦しい数年間を過ごし、やっと自分で自分に折り合いをつけ、嘘をつかずに本当の自分らしく生きていくことを決心した息子に、父親である夫は、「君のことをとても誇りに思う。」と話していました。そのことで息子は、心から慰められ、励まされ、勇気づけられたようです。親より半年はやく知っていた姉二人のサポートもあり、家族の絆が、一段と深まった瞬間でした。また、打ち明けた友達たちとも以前と全く変わることなく、それ以上に親しい交流が続いていることもありがたいことです。これから、息子に、どういう人生が待っているのか、決して平坦ではないと思いますが、神様の思いからはずれない道を歩んでほしいものと願っています。

そして、神様からの私への小さな声、それは、あらゆる区別や差別を乗り越え、開かれた心で偏見のない信仰を持ちなさい、と静かに、しかし、はっきりとおっしゃられているように思っています。リスクを感じながらも勇気をふるってカミングアウトなどしなくてもいいような、それが当たり前のこととして受け入れられるような社会に一日もはやくなっていくように親としてもキリスト者としても力を尽す者でありたいと思います。同性愛者にきちんと向き合える社会は、いわれなき差別と偏見に晒されているすべての人々に正しく向き合える社会だと信じるからです。

MT(アメリカ在住)