NPO法人LGBTの家族と友人をつなぐ会のトップページへ戻る

カミングアウトの日から

祥多郎が、カミングアウトしたのは高校卒業を、目前にした1月頃の事です。

前の年に、大学受験をと準備し始めましたが、進路が定まらず集中できないようで、秋には合格していた留学の推薦も、家族に相談もなく断って、迎えた新年早々でした。

祥多郎は、冬休みに入る前に、自分のPCを手に入れて、一日中PCに向かっていました。

私は、その頃在宅で機械の製図を請負って仕事をしておりましたので、どうも、ふさぎがちな様子をみせる祥多郎が気にはなっていましたが、進路は、一生かかって探してもいいものと思っておりましたので、「たまには、外の空気も吸って運動した方がいいよ~」と声をかける位でした。

いよいよ心ここにあらずという感じの祥多郎が、年末に、友達の家に行くと行って出かけたまま、連絡もなく数日外泊し、落ち着かない表情で帰宅しました。明らかに様子がおかしく、おどおどしているように見えました。その時も、確か泊まる時は、そのように連絡入れなさいと注意したと思います。なんだか、すっきりしない思い詰めた様子が気になりました。

それから10日程たった頃、英語の専門学校の申し込みの件を二人で検討していたのですが、何かにつけ話を反故にする態度で、ついに、キレタ私は、「行けとも行くなとも言うつもりはさらさらないけど、なんでそんなに元気ないねんっ!!」
と強い口調になりました。真っ赤な顔をして、うなだれた祥多郎の目から、大粒の涙が、堰をきったように流れ止まる様子もありません。重い沈黙があり、祥多郎は絞り出すように口を開きました。
「お母さん、好きな人がおるねん・・」
かぼそい声でした。何かを恐れていました。
「好きな人がおるんなら、その人の為に頑張ったらええやん。なにが、そんなに悲しいん?!元気だしたらええやん!彼女に子供でもできたん?」
今思えば、必死で精一杯の柔軟さを示す私でした。
「違うねん。」
沈黙・涙
「女の子じゃない。男やねん。」
すかさず、
「女でも男でもいいやんか。好きな人の為に元気だせばいいやんか!」
と切り返したのを今も覚えています。

本当につらい問いに対して祥多郎が血を滲ませて絞り出した答えの重さ。

その日を境に、私は、仕事をしているふりをして仕事場に篭っていましたが、PCに向かっても、涙が流れPCの画面も見えませんでした。

何が、悲しかったか~
当時は、祥多郎が親になる事がないという事の寂しさと、今の世の中の人達のセクシャルマイノリティに対する無知に尽きました。それと、彼が、学校というマジョリティな集団の中で、どんなに震えて怯えてきたかを、思うとその孤独感は、私を、ことごとくぶちのめしてくれました。

それからは、二人でセクシャリティーについてオープンに話し合えるようになり、いきつもどりつしながら・・祥多郎は、少しずつですが落ち着きを取り戻しました。

英語が好きと言っていたが、実は、日本から逃げようと思っていた事や、お母さんが障害者(左手の小児麻痺)やったからカミングアウトしようと思った。など・・心の内を開いてくれるようになりました。

結局、英語はインタースクールという専門学校に1年通い、その後3年関西空港の輸出入の会社に派遣として勤務しました。その際にも、彼は職場でカミングアウトしました。

今、彼は創作料理店を経営するパートナーに恵まれ、新たな自分探しをするべく、より自分の呼吸にあった職業を模索中です。

4~5年かかってつまるところ、一番大きなテーマはセクシャリティーの相違ではなく、祥多郎も私も、この世をどう生きるか~だという所に、しっかり立つ事ができました。

その後、私は私で、事実上のリストラを経験し新たに自分のできる事を探し、現在カウンセラーを目指して勉強中です。

自分自身の障害の事・健常者の方に感じる壁
また家族について・・インナーチャイルドの癒しについては自助グループを持ちたい・・
マイノリティーの方に対し無償で力になれる信頼できる場をつくる事など・・
草の根的にライフワークとして取り組めたらと思っています。

イクコママ(大阪)