私の次女であった子どもは性同一性障害です。現在大学の4年生、22歳になります。一昨年から精神科医に通い始め、昨年正式に性同一性障害であると診断されました。本人からカミングアウトがあったのは、精神科に通い始める少し前のことです。
本人はそれまでにいろいろと思い悩んでいたようですが、私としては本人の状態がいったいどの程度のものなのか分からず、そのため、その時まで本人の悩みの大きさが十分わかっていなかったのが実情でした。
ただし、小さいときからあまり女の子らしくない子どもだとは思っていました。いわゆるままごとのような遊びはしていなかったようですし、小学生の頃スカートをはいたところを見た事がありません。特に男の子に混じってサッカーを始めてからは、ますます外見も行動も男の子と見分けがつかなくなってきたように思います。しかしその当時はまだ年齢も小さいし、いわゆるボーイッシュな女の子ぐらいにしか思っていなかったのではと思います。しかし反面で、このまま男っぽいままで、または男のようにして過ごしていくのではないかとも予感もしていました。ただ不思議なことに、それを大変困ったことだとも、悪いことだともさほど思ったことはありませんでした。一つにはその子の在りようが、例えば女の子らしくなくても別に構わないのではないか、その子がそのようであるのなら、それでいいのではないかといった感じを持っていたように思います。
これは一見大変自由で個性を尊重するような考え方のように思えますが、実際もし本人が自分の事を男だと思っているのなら、これは多分親がどうこうできる問題ではないだろうし(だから親の責任ではないし)、結局成るようにしか成らない問題ではないか、と言ってみればやや投げやりな、親としては責任回避とも取れるような態度であったかもしれません。またはただ単に呑気だっただけかもしれません。しかしやはり一種の感覚として、この子が将来女性として成長し、結婚して子どもを作り、母親となっていくというイメージがどうしても持ちにくかったことも事実です。それだけ本人の様子が異なっていたのかもしれません。
このような状況だったので、本人からカミングアウトがあった時もあまりびっくりはしませんでした。本人は一大決心をしていたようですし、事実本人にとって大変な問題であったことは非常によく理解できますが、私としては正直、やはりそういうことだったのかという感じで、むしろ腑に落ちたというのか、ほっとしたというのか、こういう事に名前をつけると「性同一性障害」というのだという理解が出来たように思います。
しかし、生き方としてはそれでいいとしてもこの世の中でそのように生きていくことは、いろいろと大変であろうと容易に想像がつきました。具体的には、改名をしたいのでもう一度名前を考えてほしいと言ってきました。女性名では日常生活上差し障りのある事がたくさんあるとのことで、本人が裁判所に提出した身上書を読んでみるとその苦労がよくわかります。しかしもう一度名前をつけるということはなかなか大変なことです。こんなことなら男女共用して使える名前にしておけばよかったと思いましたが、今更どうにもなりません。しかしこの時点で親として出来ることはこれぐらいかもしれないと思い返しました。
次に本人が言うには性別適合手術を受けたいとのこと。これは実際に自分の体にメスを入れることですから、身体的な危険(言うなれば生命の危険)が伴うわけで現実的で切実な問題です。万一の事があればそれこそ元も子もないわけですから、正直いってそのような危ない(と思われる)ことはあまりしてほしくありません。自分の気持ちや生き方さえしっかりしていれば、外見などどうでもいいのではないかと思うのは当事者でない者の勝手な理屈であることはよく分かっていますが、親としてはなかなか踏ん切りのつかないところです。しかし結局は本人の人生なのですから本人が決めることだと、これはあきらめるしかないのでしょう。
これが子どもに対して私が思ってきたこと、今思っていることです。他の親御さんとずいぶん違ったところもあるかもしれませんし、同じ様なところもあるかもしれません。しかし本人に限ってみると、親の私が言うのも変ですが家族の理解には恵まれていたのではないかと思います。むしろ出だしが順調すぎるのではないかとかえって心配になります。これを老婆心といい取り越し苦労というのでしょうが、これからはもっと厳しい現実と一人で向き合って行かなければならないと思っています。親の出来ることには限りがあります。後は子どもを信じて健闘を祈るのみです。
吉田 弘幸(兵庫)