「なあなあ、あの人なんかおかまみたいで気持ち悪くない?」
「○○さんって男みたいやし結婚もしゃあらへんし、レズなんちゃう?こわー!笑」
職場では時折このような会話が楽しそうになされ、更に困ったことには、その意見の同調が求められます。
当事者のわたしとしては「うーん・・そうなんですかねえ・・・」と微妙な返事をして、続く限りの苦笑いをしてやり過ごしていますが、この手の会話が繰り返されるうちに、なんだか「わたし」から「わたし」が奪われていくような気持ちになるのです。
そこにはあきらかな侮蔑を感じ取ることができます。だけど、自分がそれにどう抵抗していけばいいのかよく分かりません。
「それは偏見です。」とか「レズはわたしです、ちなみにレズは差別用語でして、正しくはレズビアンです」などと言おうものなら、次の日から、いや、もうその瞬間からわたしのまわりに、「触れてはいけない」微妙な空気が形成されることでしょう。
だからせいぜい、「まあいろんな人がいますからね~。」くらいは付け足すようにしていますが、今はそれが精一杯の抵抗です。
とても哀しいことではありますが、これが現状です。それでもわたしは、この社会と手をつないで生きてゆかなければなりません。
だけど一方で社会は、わたしの手を簡単に振り払う強い力も持っています。
たとえば、職場での結婚に関する話題、それに付随する社会的保障の話題、気を緩めるはずのささいなプライベートな会話(最初にあげた何気ない会話も含めて)そのすべてから自分は跡形もなくきれいに除外され、いつも微妙な緊張感と孤立感に包まれているのです。
自分が侮蔑の対象である、ということを悟られないように繕ってみたりするのは日常茶飯事です。 しかし取り繕うこと自体は、訓練や慣れで上達しても、やっぱりどうしても納得のいかないことがあります。
それは、愛する人と(異性愛者と同等の権利で)家族になることや、生活をすることさえもできないという事実です。
「愛する人と家族になれない」 このことが、すごく切実な「人権問題」だと認識される社会に早くなってほしいと 心から願います。
社会から、愛する人との関係性が認められないという事実は、ここにわたしたちが「いないもの」とされていることと同じです。わたしたちは確かにここにいるのです。
多くの異性愛者が、異性を好きになることに対して説明のしようがないように、わたしにとっても同性を好きになることは、もはや説明の必要もないほどに、ごく自然で当たり前の感情です。
誰もが愛する人と胸を張って、この社会で生きていけるように。 これからわたしは、出会えた仲間らと手をつなぎ、どんなに小さくても声を上げていこうと思っています。
名前:ラッコ セクシュアリティ:レズビアン 年齢:28歳